会話ニアイコール遊戯なのかしら。

幼稚園のお遊戯、なんていうときの「遊戯」という言葉には、ただ「『遊』び『戯』れること」という意味ではなくて、「社会性や運動能力を身に付けるための一定の方法にしたがった遊び」という意味があるんだそうですね。言われてみれば…という感じですが、あまりそうやって言語化してみたことはありませんでした。
数日前にそんなことを考えて以来、他人との会話って後者の意味で「遊戯」だよねぇ…などと考えています。「非モテは無意味な会話が嫌い」なんて分析がどこかでされていたはずで、言うに及ばず僕自身もそうなのですが、しかしふと冷静になると「無意味ではない会話」というものがどうにもイメージ出来ない自分に気が付いたわけです。
ここしばらく仕事で会議が多いせいかもしれません。狭い社内での会議なんて、始める前に既にゴールは見えているんですよね。そこに辿り着くために、事前に話題や論理を詰めておいた記憶の引出しを相手の行動に応じつつパッパッと開いているだけで、行われている会話自体からは何も新しいものは生まれてきてない。ようするに会議の内容は無意味なんですよね。開くことには意味があるんでしょうけど。会議を廃止したら仕事が上手く行ったという話も聞きませんし。
ないと困るけどなんだか好きになれない、という「会話」って一体なんなんでしょうね。そんなことを思います。こうまとめると、お金ともちょっと似てますね、会話。
…なんだかすごく散漫なエントリになっちゃった。うー。あまりに会話が多いので、ちょっと独り言を書きたかったということで、お許し下さい。
(誰に謝ってるんだろう)(自分自身かなぁ)(エントリのハードルがどんどん下がってる…)